2012年12月21日より10日間北アフリカのチュニジアを旅行した。関西空港からアラブ首長国連邦のドバイ経由でチュニジアの首都チュニスの空港に着いた。なぜドバイ経由かというと航空会社がエミレーツ航空だったことも関係していた。そもそもアラブ首長国連邦の英語表記は、United Arab Emiratesであった。首長国がエミレーツであった。以前からエミレーツ航空のスチュワーデスの帽子が変わっていたのでよく覚えていた。赤い帽子から白いスカーフが垂れ下がるもので一度見れば記憶に残るものである。
鉄条網と「アラブの春」
チュニス空港について、大型バスに乗り、早速チュニス市内観光。世界遺産のメディナ(旧市街地)へ歩いていくためにブルギバ通りを通ったが、ブルギバ初代大統領の像やフランス大使館の周辺には鉄条網が張り巡らされ、自動小銃を持った兵士が装甲車とともに警備をしていた。さすがに平和な日本人から見ると驚く光景である。「アラブの春」のきっかけにもなった「ジャスミン革命」の名残りのように思えた。このことについては、ガイドさんから詳しい説明をしてもらったので後述する。メディナは日本でいえば門前町のように商店が軒を連ねて商いを行っていた。チュニスの市内観光の後、夜はケロアンのホテルに宿泊。イスラム教の聖地と言われるだけあって部屋の装飾もイスラム風であった。
12/23
朝ホテルを歩いて出ると、すぐ前がアグラブ朝の貯水池であった。貯水池のそばにある塔から全体が見渡せる。野球場がひとつ入りそうな大きさの丸い貯水池で、今から1200年前に作られて今も現役で使われているそうである。
もちろん現在までに修復は行われているが、その歴史にびっくりする。雨の少ない地方であるため、先人たちが創意工夫した結晶であるわけだ。それを子孫が受け継いで守っている。命のつながりを実感する事実である。
モスクとリサイクル、そしてスペイン
貯水池の後、ムハンマドの理髪師であったシディサハブを祀ったモスクに行く。面白かったのはリサイクルをしていたことである。建物の柱の下半分がローマ時代の遺跡から運んできた円柱をたくさん使っていたのである。現代では、先人の遺産として残すだろうが、当時の人はモスクの建築に再利用した。ある意味で合理主義であると思った。
それから寺院の中の装飾を見ているとスペインのグラナダにあったアルハンブラ宮殿を思い出した。ガイドさんに聞くとやはりそうであった。 スペイン・アンダルシア地方の影響を受けていた。地理をよく考えて見ると、スペインとチュニジアは地中海を挟んで隣の国であった。このモスクの見学の後、グランドモスクに行く予定であったが、たまたま特別の雨乞いのお祈りがあって、信者でないわれわれは入ることができず、絨毯カーペットの製造工房へ行った。ケロアンは絨毯の産地でもあった。女性の編み手が手作業で1平方メートルを1ヶ月かけて作るそうである。
そしてやっとグランドモスクに入場できた。北アフリカ最古のイスラム教の寺院で高い塔が美しい。寺院の中の広場(広い中庭)で雨水を集めて地下の貯水施設へ貯めるための穴があったのにはびっくりした。傾斜をきちんとつける土木建築の技術が1000年以上前に作られていた事実に驚かされた。
サハラ砂漠へ
ケロアンを後にトズールへ向け490km、チュニジアの北から南へ向かって大移動である。南へ行けば行くほどサハラ砂漠へ近づいていくので草木が少なくなっていった。それでも人間はこの乾燥地帯でたくましく生きていく知恵を生み出していた。チュニジア中部の平原にはオリーブの木が等間隔に整然と植えられていた。雨の少ないところで育つ木だけに根をかなり広く張るそうで木と木の間を空けないといけないそうである。本当にオリーブ畑が続いていた。これもどこかで見た光景、・・・そう、スペインである。オリーブはヨーロッパへ輸出しているそうである。いろいろな意味でヨーロッパに近い国である。もともとフランスの植民地であり、1957年に独立したこともあり、後で述べる教育にも深くフランスが関わっている。80万人のチュニジア人がフランスで暮らしている。ちなみにチュニジアで暮らしている日本人は50人。そのうち日本語ガイドは5人だそうである。またチュニジアの貿易の主なパートナーはやはりEU諸国である。またフランス人がフェリーで自分の車を運びバカンスに来るそうである。そのせいか、道路を走る車もフランスやドイツの車が多い。日本車は、やはり人気があるが、「高嶺の花」だそうである。長いバスの旅を経て、トズールに着いた。トズールは、サハラ砂漠の北の端に位置するオアシスの都市である。
12/24 朝、6時ごろホテルを出てジャメル砂丘というサハラ砂漠の日の出を見るミニツアーに出発。4輪駆動車3台に分乗して30分ほどかけて絶景地点へ。砂漠の地平線から出る太陽は圧巻であった。それにしても砂漠の朝は寒かった。するとどこからともなくネックレスのようなみやげ物を持った男性が小さな子供を連れてやってきた。
町からバイクでいつも観光客目当てに売りに来ているようである。その後、近くの「スターウォーズ」のロケの跡地へ行った。映画のセットが残った場所は正に月世界であった。砂漠というのは緑の地球にとって地球離れした他の星なのである。その後、4輪駆動のRV車で山岳オアシスの村へ移動した。
巨大な山岳オアシス
砂漠や悪路は普通の車では走れない、RV車のための道路であった。RV車で移動中は草木がほとんどない荒野だったがオアシスに着くとそこだけ緑があるという感じであった。オアシスといっても山や峡谷をもつ巨大なオアシスで、川はもちろん滝まであった。シェビカ村というところでは100年に一度あるような大雨で大洪水になって流された古い町の遺跡があった。峡谷はミニ・グランドキャニオンであった。結構規模が大きく迫力があった。不毛の地、いわば地獄かと思えば、緑豊かなオアシス、滝、峡谷という天国。両方が共存する大自然満喫の日であった。オアシスを後にして、ドゥーズに向う。
塩の湖
途中、巨大な塩の湖、ショット・エル・ジェリドを見る。湖といっても雨が少ないので、干上がった状態で巨大な荒野のように見えた。しかし、よく見ると塩のかたまりが見えた。業者が塩を採取していて、日本で言うサービスエリアのような店で売っていた。塩分が濃いところほど赤みをおびていた。とにかく360度すべて塩というところで世界第3位の大きさだそうである。ここはチュニジアでも南西部でアルジェリアに150kmのところであった。
そしてドゥーズに着く。
スターウォーズと穴倉式住居
12/25 ホテルを出発して、「スターウォーズ」の第2のロケ地、マトマタへ。マトマタはベルベル人が多数住む土地である。ベルベル人というのはチュニジアの先住民族で、今では1%程度の人口であるが、その住居がユニークというか、知恵の結晶であった。穴倉式住居であるが、その作り方は、まず土地に円筒形に穴を掘る。その円筒形の側面に横に掘っていき台所や居間や寝室など部屋を作る。もともとアラブ人からの攻撃から身を守る意味でこのような住居を作ったそうである。外から見ると一見はただの穴である。しかし、この住居が実に合理的であった。乾燥地帯であるので寒暖の差が激しい。部屋の中は窓がないので保温性に優れているし、強い日差しを避けることもできる。そのベルベル人の穴倉式住居のひとつを見学させてくれた。
個人が普通に暮らしている一般家庭である。若い嫁さんとその子供、そしてたぶん姑さんらしき人が歓迎してくれた。お茶とお菓子をご馳走になり、子供がペットとして飼っていたトカゲ(サラマンダー)を手に持って見せてくれた。恐る恐る私も手に持ってみた。おとなしいものである。異国の面白いペットである。この住居も細かい部分にも工夫が施され、快適な空間になっていた。この穴倉式住居があまりにユニークであったので「スターウォーズ」で使われたようである。映画で使われた住居は今はホテルになっていた。
ローマ人のエンターテインメント
午後はエルジェムに向った。個人的には、一番楽しみにしていた円形闘技場の見学である。ローマでコロッセオを見学したことがあるが、中へ入ることができなかったので余計に期待感があった。今から1800年ぐらい前に建てられ、35000人収容の甲子園球場ぐらいありそうな大きさの石造りの巨大な建造物である。実際に中へ入ってその舞台裏というか闘技場の地下の見学をしながら、当時の状況を想像してみた。大勢の観客がその戦いに熱狂している光景は、今のサッカーやオリンピック競技と同じような雰囲気であったのだろうと。当時のエンターテインメントだったのであろう。ただ行われていたのは、剣士の戦い、奴隷と猛獣の戦い、罪人と猛獣の戦いなど、残酷な催しだったそうで、現代では考えられない非人道的なものである。
闘技場の構造を支えている石組みを近づいて見たが、今から1800年前にどんな道具でこんなに正確に石を加工したのだろうか、と不思議に思った。現在のような加工する機械や運搬するトラックもない時代によくもこれだけのものを作ったものである。かけた時間と労力は現代の比ではなかろう。昼食では珍しい現地の料理をいただいた。クスクスという小さな粒状のパスタを素材にした料理であった。13世紀の文献に記述があるほどの伝統的な食材で、もともと保存食であるがインスタント食品にもなる便利なものである。この地では、「クスクスを上手に作れる妻は・・・」といわれるほどの主要な食材だそうである。
青と白
12/26 ゆっくりとした1日であった。スースとモナスティールという2つの港町をゆっくりじっくり観光した。古くて白い壁と青い窓をもつ家々に青い空が映えてコントラストのいい光景であった。チュニジアのツアー・パンフレットには必ずこのスースの「青と白」が使われている。今日は全行程の中の“休息日”のような日であった。
フェニキア人のカルタゴ
12/27 今日は、世界史探訪デーであった。
まず、ホテルを出発して、陶器とオレンジの町ナブールへ。街路樹にオレンジの木が植えられており実がたくさん生っていた。誰が収穫するのだろうか、ちょっと気になった。街を歩く人が勝手に取って食べるのだろうか、と思ってみた。その後、実際に陶器を作る工房兼陶器店に行った。陶器で作った太鼓(タムタム)があったのでみやげに買った。日本円で300円足らず、安い。そして次はケルクアンへ。
フェニキア人がかつてこの地に作ったカルタゴという国の遺跡である。世界遺産に指定されているが、一見してなぜこの遺跡が世界遺産なのか、と思うような住居跡であった。住居の下半分しか残っていないのでそう思ったのである。チュニジアの他の場所にあるカルタゴの遺跡はポエニ戦争でカルタゴに勝ったローマ帝国が徹底して壊して、その上にローマ人の住居を建てたものが多く、このケルクアンのように純粋にカルタゴだけの遺跡が残っているのは非常に珍しいということで世界遺産の価値があるそうである。遺跡の中に住んでいた人の生活がわかるような流し台ような住宅設備もあった。これが今から約2500年前。日本では縄文時代。これがすごい。ケルクアンを後にしてチュニスに向かった。
途中、ザクアーンの水道橋(ローマ時代の遺跡)でバスは止まった。全長で20kmで遺跡として残っているものとしては世界一だそうである。紀元2世紀ごろに作られたもので、当時は132kmあったそうである。この長い距離をわずかな高低差をつけることによって、自然に流れるように作ってあるという。その土木建設の精度の高さに本当に驚くばかりである。実際に水の流れる水路の断面もよくわかるものだった。とにかくすばらしい。
ギリシャとローマが北アフリカに
12/28 ドゥッガへ向う。ギリシャへ行ったような錯覚に陥るぐらい、保存状態のいい神殿風の建物があった。パルテノン神殿よりも形がしっかり残っていた。あまり知られていない世界遺産であるが、一見の価値がある、すばらしいものであった。チュニジア旅行の価値を高めてくれた。紀元2~4世紀に栄えたそうで、当時の人々の生活の一端がよみがえるようであった。たとえば、いす式になった共同トイレ(石造りの洋式便器)や売春宿の跡があったり、実にバラエティに富んでいた。
今も昔も健康ランド、スポーツクラブ
アントニウスの共同浴場-現代で言う健康ランド+スポーツクラブのような施設である。しかも巨大で立派な建物であった。今から1800年以上前にこのような庶民が楽しむ娯楽施設があったことが私の常識を打ち砕いてくれた。こういう発見があるので旅行はやめられない。