中央ヨーロッパ旅行記

2013年の年末から2014年元旦にかけて、中央ヨーロッパ4か国を旅行した。

12/23 日本からヘルシンキ経由でチェコのプラハへ

関西空港からフィンランドのヘルシンキ経由でチェコのプラハへ飛んだ。飛行機がフィンランド航空(FINNAIR)だったため、ヘルシンキ経由になった。ヘルシンキ空港はそれほど大きくはなかったがちょっとしたハブ空港のようであった。ここで今回初めて分かったことが一つある。旅行したのは中央ヨーロッパの4か国でチェコ・オーストリア・スロバキア・ハンガリーであるが、入国審査はこのフィンランド・ヘルシンキだけで、実際の4か国では一切審査がなかったことである。いわゆるシェンゲン協定という条約に加盟しているからであった。ヨーロッパにおける国境の意味が日本と違うことに驚いた。国境を海で接しており、国境に関する問題で近隣の国とも関係が現在あまりよくない日本にとっては考えにくい状況であった。

 飛行時間が全部で12時間あまりで、チェコのプラハに着いた。プラハ空港からバスでホテルへ。夜の9時頃に着いた。荷物を部屋に置いてすぐ、歩いて2,3分のスーパーマーケットへ買い物に行った。なぜなら明日がクリスマス・イブで店が閉まるから。クリスマスは日本の正月のようである。店はアメリカ的な店づくりの大きな店で、周辺のヨーロッパの古い町並みとはやや違和感のあるものだった。買い物の後、ホテルに帰り、徹夜をした後のような時差ボケを感じながら部屋で休んだ。

12/24 プラハ歴史地区観光(チェコ)

 

プラハ城

  

  

 

 

 

カレル橋

カレル橋

旧市庁舎(時計台)

旧市庁舎(時計台)

ホテルからバスでプラハ城へ。ヨーロッパらしいゴシック様式のカトリック教会が中央部にあり、周りを回廊のように建物が囲んでいる。入口で衛兵の交代式を見ることができた。城は小高い丘にあり、そこから市街地へ下っていく途中に街全体を見渡せるところがあった。すばらしい絶景であった。家々の屋根が赤で統一されており、どう見ても何百年も前から変わらない、中世の風景であった。市街地では、カレル橋が見ごたえがある。600年の風雪に耐えた石橋で、欄干に30体の聖人像が飾られている。その中には日本にゆかりのフランシスコ・ザビエルの像もあった。次に印象深かったのは、旧市庁舎の建物と天文時計。塔に登ることができ、そこからの見晴しはまた格別であった。昔の人もこれとほぼ同じ風景を見ていたんだろうと感慨深く見た。時計は毎正時にからくりの仕掛けが出てくる。現代の仕掛けと違い、素朴なものであった。午後はフリータイムであり、街中を歩いた。クリスマスということもあり、午後4時ごろには閉まる店もあり、土産物屋のはしごで何とか時間を費やした。普通の店は本当に閉まっていった。しかし、クリスマスマーケットといういわゆる屋台は営業していた。やはりクリスマスは誰しも家族みんなで家庭でゆっくり過ごすのがヨーロッパでの定番のようであった。この日の万歩計は22000歩を超えていた。

クリスマスマーケット

旧市庁舎の塔からの眺め1旧市庁舎からの眺め2

12/25テルチ歴史地区、チェスキークロムロフ歴史地区観光(チェコ)

バスで長距離移動。車窓からの眺めは、葉が落ちて枝だけになった木や常緑の針葉樹の森林地帯があったり、凍った池があったりしたが、結構牧場が多かった。そしてテルチに着く。

テルチは16世紀にザハリアーシュが統治した。16世紀前半に大火災で街のほとんどが焼け落ちた。そのため、彼は、新たな家はルネッサンス様式かバロック様式で建築するように呼びかけたそうである。細長い長方形の広場の周辺に個々の家々がくっついた状態で軒を連ねている。趣向を凝らしたカラフルな家がほとんどであった。16世紀から時間が止まったような光景であった。

 テルチを後にチェスキー・クロムロフへ向かう。途中の窓からの眺めは右も左も牧場という感じでのどかな風景であった。農業が産業の柱になっている感じはした。

 冬のヨーロッパ旅行は日没時間との戦いであると添乗員さんが言っていた。今日は何とかその戦いに勝って暗くなる前にチェスキークロムロフへ着いた。ヴルタヴァバ川(モルダウ川)がヘビのように曲がりくねって流れる場所にできたルネッサンス時代の古い街である。いろいろな時代の建築様式が見られる。16世紀ルネッサンス時代の都市として繁栄し18世紀半ばまで続いたが、その後、時代に取り残され寂れていったそうである。現代になってその古さが見直されて世界遺産に指定されたそうである。

テルチテルチ チェスキークロムロフチェスキークロムロフ
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世界遺産の中のホテル

世界遺産の中のホテル

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☆チェコの歴史

 ここで、チェコの歴史を大雑把にたどってみる。正に紆余曲折のひとことに尽きる歴史である。ヨーロッパの中央に位置し、たくさんの国と国境を接していることからやむを得ないのだろう。

 10世紀にボヘミア王国が成立し、1212年にローマ帝国からオタカル1世がボヘミア王国の初代の王として認められる。ボヘミアというのはチェコの歴史的名称である。1346年ルクセンブルク家のカレル4世が即位し、翌年彼は神聖ローマ帝国皇帝に選ばれる。この時代がチェコにとって黄金時代でカレル橋などプラハの街の基盤が整備された。その後、15世紀にはハプスブルク家の支配下にはいる。16世紀にオーストリア・ハプスブルク家のフェルディナント1世がボヘミア国王に選出される。この後はドイツを中心とする他国の支配下に置かれ、いわゆる暗黒時代に入る。ドイツ支配下ではドイツ語が強要され、チェコ語を使ってはいけないとされた。唯一マリオネット(人形劇)だけはチェコ語でやっていた。

 チェコの歴史ではヤン・フスを忘れてはならない。15世紀、カトリック教会の堕落を厳しく批判して宗教改革を訴えた人物。最後は火あぶりの刑に処せられたが、彼の遺志は信奉者に引き継がれた。プラハ市街地にその像が立つ。

 ハプスブルク家の統治は15世紀から20世紀の1918年まで続く。統治が終焉したきっかけは、第1次世界大戦である。1914年6月にオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺され、第1次世界大戦が勃発したのである。ちょうど今から100年前である。結局、1918年にオーストリア=ハンガリー二重帝国が破れ、マサリクがワシントンでチェコスロバキアの独立を宣言した。その後、ナチスドイツなどの支配を受けたが、1945年の第2次世界大戦終結を経て、1948年共産党が政権をとる。しかし、1968年、「プラハの春」といわれている「チェコ事件」がおきる。共産党の第1書記に就任したドプチェクが「人間の顔をした社会主義」という自由化政策を打ち出した。それに対して、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構の軍隊が軍事介入を行った事件である。結局、翌年にドプチェクはフサークに第1書記を譲り、「正常化」の名のもと保守的な体制が訪れた。

 その後、ソ連のペレストロイカの影響を受けて、1989年にビロード革命が起きた。ビロードのようになめらかに無血で実現した革命で、共産党独裁政権が倒れ、民主化が進んだ。そして1993年にチェコとスロバキアは正式に分離した。なぜ、チェコスロバキアは2つに別れたか、たぶん日本人が最初に持つ疑問だと思う。それはもともと文化や習慣の違うチェコ人とスロバキア人が隣国との関係や政治的な背景のもとで連邦制を形成して70年間1つの国でやってきた。それが、急激な市場経済化を進めたいチェコと穏健な改革を求めるスロバキアの対立などが原因となり、分離することになった。当時、本当に分離すべきであったか、という意見は両国民の中に強かったそうである。そのこともあったか、チェコ語とスロバキア語は非常によく似ている。

 そして2004年両国はEUに同時加盟している。

 

 

12/26 ザルツブルグ(オーストリア)

  世界で最も美しい町と称される世界遺産の町チェスキークロムロフのホテルを出発し、ザルツブルグへ向かう。車窓からの眺めはなだらかな丘陵地帯で高い山はない草原であった。40分程でチェコとオーストリアの国境を越えた。くねくね曲がった一般道から高速道路へ入った。交通事情は日本と同じぐらいで交通ルールは守られていた。違ったのは昼間でもライトを点灯している車が結構多かったことである。車窓からドイツ・オーストリア山脈が白い雪の頂きを見せていた。

 オーストリアといえばハプスブルク家がその代名詞である。同家がこの地を統治するようになったのは13世紀であり、同家のルドルフ1世が神聖ローマ帝国君主(ドイツ王)に選ばれたことから始まる。この時、オーストリア公国も手に入れ、同家によるオーストリア支配が始まる。ハプスブルク家については、ウィーンのところで後述したい。

  そして、オーストリアのザルツブルグへ着いた。ザルツというのは塩のことでブルグは城のことで、かつて岩塩の産出で栄えたことでこの名がついたそうである。たしかにザルツは英語のソルトと音は似ている。ザルツブルグといえば世界的な音楽祭で有名で、モーツアルトの生まれたところでもある。 モーツアルトは6歳の時、ハプスブルグ家のマリア・テレジアの前で演奏したそうである。

   ザルツブルグ着いてすぐの市街地を見渡せる展望台へ岩山をくりぬいたエレベーターで上がった。この眺めもよかった。古い城と街並みが絵になっていた。その後、旧市街地にあるモーツアルトの生家や映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台にもなったミラベル宮殿と庭園へ行った。そしてこの日はザルツブルグで宿泊。

ザルツブルグ市街地ミラベル宮殿と庭園
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12/27 ザルツカンマーグート ハルシュタット湖 (オーストリア)

ザルツブルグからウィーンに向けて出発。途中ザルツーカンマーグートという、今回の旅行中で最も美しい大自然の景勝地を通った。湖と山々が我々を魅了した。バスの運転手が車を止めてくれ写真を撮らせてくれた。それぐらい美しい風景だった。さらに湖岸の山々で雲が湧き出ているような光景を見せてくれた。針葉樹と白い雲、雪化粧した山、そして湖。それがハルシュタットであった。ハルとは塩という意味で、シュタットは場所という意味。ゆっくりと湖畔を歩きながら何回もシャッターを切った。百聞は一見しかず、つたない言葉より写真を見てほしい。

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ハルシュタットを後にして、ヴァッハウ渓谷を通りながらウィーンに向った。途中メルク修道院に立ち寄る。11世紀にバーベンベルク家のレオポルト1世が修道院をここに建立した。18世紀にハプスブルク家はバロック様式に改築した。大規模な建物であった。「サウンド・オブ・ミュージック」のマリア先生の出身地がこの修道院だそうである。ちょうど夕日が沈む美しい光景に出くわした。修道院からウィーンへ向かうバスからはドナウ川と並行して走ることもあった。そこには車で言えばリムジンのような長い船が貨物を運んでいた。ドナウ川は2,860kmで欧州第2位の長さである。ドイツからルーマニアまで流れている。ところで中央ヨーロッパのホテルの水道水は飲むことができたのである。今までいろいろな国で水道の水が飲めるところは非常に少なかったので意外であった。ホテルでミネラルウォーターが1本無料で置いてあるのが一般的である。さらに水に関わる話を一つ紹介する。ワインやビールは現代人のとっては嗜好品であるが、古代の人にとっては飲料水の代わりであったそうである。現代のように水道設備が発達していない時代には保存できる水としてビールやワインが作られたそうである。納得である。

12/28 ウィーン世界遺産観光

 ラテン語で”美しい眺め”という意味のベルヴェデーレ宮殿を観光した。バロック様式の美しい宮殿でハプスブルク家に仕えていたオイゲン公が夏の離宮 として建造したものである。確かにこの宮殿からウィーン市街の美しい眺めを見渡すことができた。もうひとつシェーンブルン宮殿の見学に行った。ハプスブルク家の歴代君主が離宮として使用した宮殿である。マリアテレジアが避暑のために利用した特別の部屋を見学できた。撮影禁止だったので下手な解説をするが、天国楽園のような絵が壁や天井に描かれていた。ストーブも塔のような形で装飾が施された豪華なものだった。少し広い長方形のホールがあった。「美しく青きドナウ」の音楽で社交ダンスを踊る貴族たちの姿が想像できるような部屋であった。実際、ニューイヤーコンサートがここで開かれるそうである。壁には結婚式などのいろいろな行事の絵画がたくさん描かれていた。絵の中に幼少期のモーツアルトの姿があった。絵を描いたのは、Auerbach(アウエルバッハ))という画家であった。この宮殿は維持管理のために民間委託され宮殿の上の方はアパートになっているそうである。そこにはハプスブルク家の召使いの子孫が住んでいるそうである。ハプスブルク家の子孫は現在500人以上生存している。マリアテレジアは16人子供を産んだ。その11番目の子がマリーアントワネットである。彼女は波乱の人生を送ったが最後は断首された。

シェーンブルン宮殿

シェーンブルン宮殿

ベルヴェデーレ宮殿

ベルヴェデーレ宮殿

宮殿からのウィーンの街並み

宮殿からのウィーンの街並み

ウィーンの街並み

ウィーンの街並み

12/29 スロバキア ブラチスラバ観光

スロバキアに向けてバスで移動。チェコは近代化が早かったがスロバキアは独自の歴史と文化をたどった。ほぼ1000年の間ハンガリー王国の一部であった。ハプスブルク家の直系ではなく、牧歌的な国、農業王国であった。18世紀末に民族復興運動が起きた。しかし1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立して圧政が始まり、運動を圧迫した。しかし、運動は継続され、これがもとになってチェコ人と協力して、1918年チェコスロバキアが成立した。ところがチェコ中心のチェコスロバキア主義だったため、1993年スロバキアは独立した。そして2004年5月にEUに加盟した。

 ブラチスラバ旧市街観光。最初にブラチスラバ城を見学したが、地味な城であった。しかし、マリアテレジアが住んでいたこともあるそうである。ちょうど60年前に修復した。巨大な長方形のテーブルをひっくり返したような城であった。4隅のテーブルの脚の部分は鉛筆のようであった。その後、旧市街地を歩いて観光。街並みは他のヨーロッパの国で見かけたものだった。ウィーンとの違いは人通りが少ないことである。人口80万人の首都だから納得できる。しかし街中には観光客を喜ばせるモニュメントがたくさん用意されていた。おもてなし精神を感じた。規模は小さいが散策するにはちょうどいい街であった。

ブラチスラバの街中

ブラチスラバの街中

ブラチスラバの街中の風景

ブラチスラバの街中の風景

街中のモニュメント

街中のモニュメント

街中のモニュメント

街中のモニュメント

  ウィーンからブラチスラバ経由でプダペストへの移動である。言い換えればオーストリアからスロバキア経由でハンガリーへ3つの国をまたぐことになる。それにしてもバスから見える光景は高い山がほとんど見えない大平原のような高原であった。

12/30 ブダペスト市内観光

 ドナウ川をはさんでブダ地区とペスト地区に分かれる。山側がブダ地区。ペスト地区からブダ地区へマルキット橋(パリのエッフェル塔を作った会社が作ったそうである)を渡ってバスで移動したが橋からの眺めが最高であった。もちろん山側のブダ地区からの眺めもすばらしいものだった。写真をご覧いただきたい。正に絵になる光景である。そういう世界遺産になるような街で育ったブダペストの人々はアパート住まいの人がほとんどで、それも古いスタイルの建物に住みたいという人が多く、新しいコンクリート製の建物は好まれないようである。

 昼食の後、ブダペストからドナウベンドとエステルゴムへ。ドナウ川が大きく南に曲がりハンガリー国内を流れ始める場所がエステルゴムの街。ドナウベンドとはドナウの曲がり角という意味で、ハンガリーでは「ドナウの膝」として親しまれている。車窓からの眺めはなだらかな山に別荘がたくさん見えた。ハンガリーには高い山はあまりないようである。一番高い山で1015mだそうである。エステルゴムに着いて巨大な大聖堂を見学した。ハンガリー最大の教会である。その教会の裏に行くとドナウ川を挟んでスロバキアが見えた。ここは国境なのである。その後、センテンドレの街を見学した。規模は小さいが歩いて散策するにはちょうどいい町並みであった。博物館やギャラリーもあるアーティストの街でもあった。そしてブダペストの街へ帰った。そして最後の夜はドナウ川のナイトクルーズである。ブダペストを紹介する観光用の写真によく使われるのがこのドナウ川ナイトクルーズの写真であるそうだ。撮影の技術が乏しいので再現性に乏しいがともかく写真を見てほしい。

ブダ地区からの眺め

ブダ地区からの眺め

絶景に多くの観光客

絶景に多くの観光客

エステルゴムの大聖堂

エステルゴムの大聖堂

センテンドレ

センテンドレ

ブダペスト夜景

ブダペスト夜景

ドナウ川の向こうはスロバキア

ドナウ川の向こうはスロバキア

☆中央ヨーロッパと第1次世界大戦

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1914年のヨーロッパ

 今からちょうど100年前に、この中央ヨーロッパで第1次世界大戦のきっかけとなる事件が起きている。オーストリア=ハンガリー帝国の一部であったボスニアのサラエボで帝国皇帝の世継であるフランツ・フェルディナント大公がセルビア人に暗殺されたのである。当時の地図を見ていただきたい(出典:ウィキペディア)。今回旅行した中央ヨーロッパの4か国であるチェコ・オーストリア・スロバキア・ハンガリーのほとんどがオーストリア=ハンガリー帝国に包含されている。この大戦は、ヨーロッパの君主制の消滅をもたらし、古い世界秩序を破壊した。中欧においては、オーストリア=ハンガリー帝国が分解し、ハプスブルク家は没落した。世界史が大きく変わったのである。今回観光した場所でもハプスブルク家ゆかりのところが結構あったのでその世界史の動きを体感することができた。

 この戦争は人類史上初めての世界規模の戦争であり、犠牲者は約1900万人、負傷者は約2200万人と推定されている。数えきれない多くの悲劇を人類全体にもたらしている。今の平和な観光地からは想像できない事実である。そしてさらに重い事実は、第1次世界大戦の戦後処理の失敗と世界恐慌などが第2次世界大戦を引き起こす原因になったのである。人類の英知を結集して戦争は避けなければならない。世界史は教えてくれている。

 世界中のどの国にも普通に海外旅行ができるかどうかが世界の平和のバロメーターかもしれない。そのレベルを今よりさらに上げてもらいたい。

 そもそも日本の地図をヨーロッパへもってきて比べるとオーストリア=ハンガリー帝国をはみ出してしまう。そういう範囲に多くの国が歴史の中で離合集散を繰り返している。その意味でEUの存在は歴史の必然的な帰結のような気がしてならない。

 世界中のどの国にも普通に海外旅行ができるかどうかが世界の平和のバロメーターかもしれない。そのレベルを今よりさらに上げる必要がある。

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