2013年8月13日から19日までベトナムを旅行してきました。日本もベトナムも共に北半球の国なので、基本的には暑いだろうし、日本より赤道に近いのでさらに暑いのではないか、と覚悟していったが、予想に反し涼しい日が数日あった。
8/13 ホーチミン(サイゴン)と水上人形劇
成田空港からの出発は約1時間半遅れた。機材の都合だそうである。ベトナム航空でホーチミンまで約6時間の飛行であった。ホーチミンに到着して、すぐ市内観光で、サイゴン大教会や中央郵便局へ行った。ところで、サイゴンということばはかつてよく耳にしたものであるが、ホーチミン市のことである。サイゴンはいわゆる敵がつけた名で、ベトナム戦争終結後に、独立の父であるホーチミンから名をもらったのである。
その日の夜は、さっそく、「水上人形劇」を観劇した。ことばがわからなくても、動きで内容がある程度わかるし、ユーモアがたっぷりでおもしろかった。何で水上で人形劇をやるのかというと、そもそも人形を操っている人を隠すためということが人形劇を見てはじめてわかった。普通の水上でない人形劇でも操る人を隠すしかけがあるが、たいてい、どこで操っているかわかるものがほとんどである。しかし、この人形劇だけはわからなかった。その意味でも見事であった。百聞は一見にしかずなので左下の「水上人形劇」をクリックしてください。
水上人形劇(クリックしてダウンロード・ファイル保存した後、それを開くと再生します)
8/14 クチトンネル(ベトナム戦争戦跡)
バスでホーチミンからクチトンネル観光へ行く。ベトナム戦争の戦跡である。小国であったベトナムが世界最強の大国アメリカに勝った証拠というガイドの説明であった。トンネルというより巨大地下基地であった。その入口がすごい。敵に発見されないように、40cmと30cm程度の長方形の入口で、人一人がやっと入れる程度の大きさであり、しかも土や草で巧妙に隠してあった。入口から先がもっとすごい。全長約200kmというから驚く他ない。地下都市といってもいいぐらいの規模である。実際に中に入った。通路は人がしゃがまないとあるけない高さで照明もないので、途中自分がこの地下壕に取り残されたのではないかという不安にかられる体験をさせてもらった。アメリカ軍の戦車の残骸があったが弾痕が生々しかった。
元来この地下壕は戦争目的に作られたのではなく、仏領時代に禁止されていた「焼酎」を密造するためにつくられたものを改良したそうである。人の知恵というか執念のようなものを感じた。同時に硫黄島での日本とアメリカの戦いを思い出した。栗林忠道という軍人がクチトンネルまではいかないが相当な規模の地下壕を掘り、アメリカ軍に対して持久戦に臨んだ。それがその後のアメリカ軍の戦争の仕方に影響を与えた、と言われている。やはり同じ戦いの方法であった。
今から38年前の1975年に戦争は終わった。なくなった人は238万人(関係国すべてを含む)といわれている。ガイドさんの親族もなくなったそうである。第2次世界大戦における日本人の犠牲者が310万人であることから考えても甚大
な犠牲といわざるを得ない。戦争は長期に及ぶとやはり犠牲者の数が10万人、100万人単位で増えていく
ものであり、早期の対策が必要であることを実感した。
1975年といえば、私が大学4年であり、ちょうどベトナムの復興が私の仕事人生と重なるのである。現在のベトナムは38年前の惨劇がうそのような状況であるが、クチトンネルという巨大な戦争用の地下要塞を観光施設に変えているところに、時代の流れと人間のたくましさを感じた。
その後、ホーチミン空港から空路ダナンへ行く。そしてバスで3時間、フエに着きホテルへ。
8/15 フエ
世界遺産となっているベトナム最後の王朝である阮朝(グエンチョウ)の宮殿の観光をした。入口にあたる建物を見て、ベトナムと中国が隣国であることがわかった。ひとことでいえば「ミニ故宮」である。文字通りまねてつくったそうである。あたりまえのことであるが地理的に近いことは文化的に近くなるようである。ベトナム語もどこか中国語に似ていると私は思っているがどうだろうか。ここでもベトナム戦争の跡が残っていた。宮殿の建物に弾痕がたくさん残っているのである。
その後、7層になった塔が有名なティエンムー寺を見学した。中国の西安で見た大雁塔に似た形の仏塔である。その寺の中に古い型のオースチンという車が展示してあった。それは、ベトナム戦争に抗議して焼身自殺したこの寺の僧が、自殺した場所まで乗って行ったものだそうである。焼身自殺の生々しい写真も展示されていた。すると、思わぬ光景に出くわした。若い修行僧も含めた僧侶たちが勢ぞろいして昼食をとる場面である。我々観光客を気にすることなく静粛にかつ質素に食事をとっていた。
そして、アンクー市場へ。農産物、日用雑貨、衣服などたくさんのものが販売されており、どこの国でも同じように活気のある場であった。自由行動の時間があったので、いろいろと買い物ができた。
▲▲ガイドさんから聞いたベトナム事情その1
ベトナム人の平均年収は、約20万円。都市部では25万円程度。月収は残業込みで18000円ぐらい。役人の月収は、2〜4万円。外資系の会社の場合、5〜10数万円。IT関係の給料はいいそうである。役人のことから、賄賂ことに話が及んだ。公務員になるのは難しく、コネがないとなれないそうである。また、交通違反の罰金は交通警察官の懐に入るそうである。警察官の私情で違反にならない場合もあるそうである。いわば「役人天国」を強調していた。
その後は4時間かけてダナンへ移動。途中、ビーチへ立ち寄った。砂のきめが細かくきれいなビーチであった。ダナンへ着いたら、ダナン大聖堂へ。
8/16 ホイアンとミーソン遺跡
今から250年~300年ほど前の古い町並みが残る一押しの観光スポットである。両側に古い建物が並ぶ道を歩いていると300年前に飛んで時間旅行をしている雰囲気である。今回はゆっくりと散策だけではなく、自転車タクシーのシクロに乗せてもらって街を回った。天気がよかったこともあり、今回のベトナムの中でも印象深かったところの一つである。かつては国際都市だったそうで、なんと1000人もの日本人が住んでいたそうである。その証拠が「日本橋」と呼ばれる古い橋である。
ホイアンの後はミーソン遺跡である。個人的には楽しみにしていたところであったので少しわくわくしていた。なぜかというとその古さである。4世紀から13世紀までのチャンパ王国の宗教施設(ヒンドゥー教)であった。「ミーソン」とは美しい山を意味するそうである。たしかに山の中にあった。日本でいえば鎌倉時代以前だけに、経過した時間の大きさと遺跡の当時の姿を想像すると感動を覚える。現在のベトナム人の80%が仏教であることを考えると、栄枯盛衰を感じた。建物の柱に施された細かな彫刻から当時の優れた建築技術がうかがえる。どういう道具を使い、どれぐらい時間をかけてつくったのだろうかと思いをめぐらした。この遺跡は、今では少数民族になったチャム族がつくったものであり、その民族舞踊も見ることができた。踊りは、タイやインドなどで見たことがあるような文化的な近さを感じた。
8/17 移動
ホイアンからダナンへ行き、そこから飛行機でハノイへ移動する。ベトナムへ来て3人目の日本語ガイドさんのトイさんに迎えられた。日本語が上手でベトナム事情をいろいろと教えてくれた。
▲▲ガイドさんの教えてくれたベトナム事情その2
ベトナム人の住宅の屋根には水を貯めておくタンクと避雷針が多く見受けられた。雷が多いそうで毎年200人ぐらいがなくなっているそうである。驚きである。雷が発生しやすい地域のようである。
通貨の単位はドンDongであるがなぜこうなったか。もともと銅で通貨を作ったことからこう呼ぶことになったそうである。現在通用している貨幣の中心は紙幣であり、金属の硬貨はあまり使われていない。なぜか。硬貨は重たいからである。
教育制度は、543制で日本の633制とほぼ同じであった。
ベトナムはそもそも鉱物資源(石炭、石油、ルビーなど)が多かったため、歴史を振り返ると、列強のエジキになってきた。日本は鉱物資源がほとんどなかったことは幸いだったかもしれない。
米の生産量は世界第1位であり、コーヒーは世界第2位という農業国である。それが傘のような三角帽子をかぶり、農産物をかつぎ棒で天秤のように肩に担いて運ぶ姿になったのである。(トップの写真)
フルーツの種類も非常にたくさんあり、今回の旅行で初めて食べたくだものが少なくとも2つあった。その一つがシャカトウで、文字通り、お釈迦様の頭のように粒粒で表面がおおわれた、グレープフルーツぐらいの大きさのくだものであった。百聞は一見にしかずですから写真をどうぞ。ごつごつした”お釈迦様の頭”の皮をむいて白い果肉を食べると、見かけと違って甘くおいしかった。
ベトナムは南北に長い地形であるため、北部は温帯に属し四季があるが、南部は亜熱帯の気候である。
8/18 ハロン湾クルーズ
今日はほぼ1日ハロン湾観光である。われわれのグループは10名であったが、1隻の中型船を借り切って、約6時間かけての島巡りのような小クルーズ旅行であった。以前中国の桂林の川下りをした時、「桂林の風景を海にもっていけば、ハロン湾になるはず、いつかハロン湾に行こう。」と家内と話していた。それが実現したこともあり、感動に拍車をかけた。本当にその規模の大きさに驚くばかりである。桂林の比ではない。船が行けども行けども海面からにょっきりと出た岩山がずっと続くのである。なぜ、こんな地形ができたのだろうか。素朴にそう思ってしまう。夏ではあるが海の上は涼しい風に助けられ、快適な船旅を満喫した。ほかの人に薦めたい観光スポットのひとつである。
船は、3、4人の船員で運行していたが、家族のような感じであった。ご主人が船長で船のかじをとり、奥さんが料理を作り、客に接待する。後の人がそれを補助する。船が自分の家であり、仕事場であった。ハロン湾の港にはこのようなたくさんの船がひしめき合っていた。
クルーズの途中で小型船がぶつかるぐらいまでそばに寄ってきた。何かと思えば、行商で魚を売りに来たのである。海の上でこんな商売があるとは思わなかった。また、途中で島に降りて鍾乳洞を見学した。これもすばらしかった。
<<ガイドさんから聞いたベトナムの歴史と文化その1>>
西暦1世紀から10世紀まで1000年間は中国に支配されていた。938年に中国から独立した。その後19世紀まで封建時代であり、中国から漢字、儒教、科挙制度など様々な文化が入ってきた。13世紀から15世紀は仏教が繁栄した。
1858年から1954年まで約100年間は、フランスの植民地であり、様々な文化が導入された。その一つが、コーヒーである。今では世界で第2位のコーヒー輸出国である。特に最高級のコーヒーは「リスのコーヒー」でかなりの値段がつくそうである。私はコーヒー好きであるが、高級品にはあまり関心がないので買わなかった。しかし、世界第2位は今回はじめて知った。
もうひとつがフランス語である。今でも年配の人はペラペラだそうである。そして現在のベトナム語で使われる文字は、アルファベットであるが、その文字の上に^のような記号がいろいろと付けられている。それがラテン語系であるフランス語から導入されたものだそうである。ベトナム語で「こんにちは」は「シンチャオ」であるが、「チャオ」はイタリア語である。イタリア語とフランス語はラテン語が先祖であるそうである。意外な文化的関係に驚きである。
1955年から1975年までがベトナム戦争である。(一般的には1960年12月に始まったとされている。さらに、1978年から1989年までカンボジアとの間で紛争が続いた。)ベトナム戦争ではすべての関係国を含めて500万人の人がなくなったそうである。(ガイドさんが言った数字。前述の数字と違うのは、期間や関係国の範囲などの違いによる。)ベトナム戦争は北ベトナムと南ベトナムの間で行われたわけだが、それぞれ北はロシア、南はアメリカの支援を受けた、「冷戦の代理戦争」とも言われている。1973年に戦争が終わり、1975年に北と南が統一されたわけだが、弱い南ベトナムを強い北ベトナムが吸収合併した、とガイドさんは話していた。その南ベトナムにおけるエピソードを紹介してくれた。南は徴兵制が厳しかったそうだが、それを逃れるために、ダンゴ虫のような虫を食べたそうである。食べるとハンセン病のような症状が出るらしい。こういう行為をいわば卑怯な行為として片付けるのでなく、戦争に対する庶民のささやかな抵抗という側面もみるべきではないだろうか。ベトナム戦争は終わったが、今度は隣国カンボジアでポルポトが実権を握り、ベトナムに侵攻してきた。ポルポトはクメールルージュであるから、かつてクメール人が住んでいたベトナムを取りたかったのである。しかし、ベトナムの抵抗に合い、ポルポトは撤退。逆にベトナムがカンボジアに侵攻して1989年まで占領した。ポルポトの背後では中国が支援していた。そういうこともあってか、中国との関係はあまりよくない。
日本でいえば、高度経済成長期から石油ショック頃にあてはまる。日本が発展途上国から先進国の仲間入りをしている間、戦争をしていたわけで、ガイドさんいわく「日本より50年遅れている」理由の一つであった。日本とは様々な条件が違うので50年の遅れがすべて戦争のせいではないだろうが、バンコクより30年遅れていると言われていることについては、戦争がその主たる原因であるのはまちがいない。実際、社会資本的なインフラ整備は遅れている。鉄道は少なく、地下鉄もない。路線バスもあるがあまり利用されていない。それがベトナム名物の「バイク天国」につながっているのである。
<<ベトナムの交通事情>>
要するにバイク天国である。四輪車よりも二輪車が圧倒的に多い。そのせいもあり、車優先である。交通量の多い道路を横断する時は至難の業である。バスの運転も結構荒かった。片側1車線の道路で反対車線にはみ出しての追い越しを日常的に行っていた。日本ではこんな追い越しはほとんどしないというものである。道路の整備が遅れている。日本のように山をくりぬいたトンネルもまだあまりないのである。そのため山を越えるためには長い坂道をひたすら登るしかない。ところがトラックに積めるだけ積んだ過積載のトラックがのろのろしか坂道を登れないため大渋滞になるのである。トンネルはひとつ立派なものがあったが、日本の協力で掘ったものであった。トンネル入口上部にベトナム国旗と日の丸が埋め込まれていた。日本とベトナムは現在非常にいい関係にある。